少子化の時代を迎えて久しくなったが、スポーツ各界の心ある人たちはひそかに憂慮している。それは、子どもたちのスポーツ離れと各競技への分散である。
前者については、昔に比べて、子どもたちが戸外でのびのびと遊び回る環境が失われ、室内(自宅だけでなく塾など)に閉じこもることが多くなったと言われており、多くのおとなたちがそれを実感しているだろう。
後者については、一部のスポーツ関係者が痛感している。かつては、子どもたちが行っていた競技は野球をはじめ限られた数だったが、現在では中学生段階でもゴルフ、体操、フェンシング、スノーボード等々、様々な競技が子どもたちに好まれている。子どもの数が減り、その一方で競技の数が増えれば、一競技当たりの人数が減少するのは当然である。
スポーツ界全体としては、スポーツ人口の比率が高まるのは好ましい傾向ではあるが、野球という一競技に限れば、望ましいとはあまりいえない。私にしても、野球人の一人として、了見が狭いかも知れないが、やはり最もファンの多い野球型スポーツの裾野が狭まるのは残念でしかたがない。
柏市は、いわずと知れた柏レイソルの地元だ。サッカー少年少女が増加するのは当然である。しかし、だからといって、野球少年少女が減少するのに手を拱(こまね)いて傍観しているのは情けないと常々危惧していた。YBCのこの5年間の活動の中で、徐々にかつ確実に柏市との関係も密になってきており、もっとも底辺というべき小学生にスポーツそして野球型競技の楽しさを伝えたいと思っていた。
たまたま、柏市地域づくり推進部の高橋直資課長と松山正史副参事との懇談したとき、小学生向きの野球型競技としてティーボールの話をした。高橋課長は、ティーボールはまだ一般に馴染みが薄いから、初めは講習会のような形が良いのではないかと言う。その通りだと私も思って、6月に柏市役所を訪問した折りに、小冊子「ティーボール入門」を進呈しておいた。
それが結実して、夏休みも僅かとなった27日、柏市主催「第1回 柏市ティーボール教室」が実施された。これはYBCが創設以来ずっと目的にしてきた地域貢献の一つであり、野球教室の最年少版といっていい。さいわい、柏市が主催者として事を進めてくれたお陰で、YBCは脇役ですんで大いに助かった。柏市では広報部などもサポートしてくれた。
松山副参事は、全国ティーボール大会が西武ドームで行われた8月7日、わざわざ見学に足を運んでくれた。それで、ティーボールが地域づくりや児童の健全な育成に寄与できると判断されたに違いない。(興味のある方は、NPO法人日本ティーボール協会のHPを参照していただきたい。)
松山氏はかつて教育委員会で仕事をしていたそうで、小中学校の事情に明るい。その関わりで、この企画の呼びかけに最初に手を挙げてくれたのが、柏市立第六小学校の馬場秀樹校長だった。同校にはティーボール用具が3セットもあり、3〜4年生の体育の必須競技として導入を決めたが、精通している教諭がいないのだという。
その馬場校長は、当日8時半、すでにトレーニングウエア―姿でお待ちだった。用意周到である。YBCからは久保田監督、川村主将、山賀・平野両副主将、新沼麗子マネ、谷澤副部長が参加して、子どもたちと保護者の皆さんに楽しさをアピールしてくれた。夏休み最後の週末だから、各種の行事と重なったり、宿題のやり残しを片付けたりで、親子ともども忙しいせいか、参加者は約30名で、少し寂しい数だったが、とにかく第一回目を開催できたのは意義があるだろう。回を追うごとに参加者が増えるのは、谷沢旗争奪少年野球大会がそうであるように、いかにもYBCらしい。





ティーボールといえば、2008年に日本ティーボール協会の事務局から「2010年の千葉国体で、ティーボールが公開競技になったので、谷沢さんに是非とも協力を」という依頼があった。そのつもりでいたら、しばらくして、「国体は当協会ではなく、千葉県ティーボール連盟が取り仕切る。だが、同連盟は何年もの間、活動らしい活動をしていないというので、もし谷沢さんに協力の要請があったら是非とも引き受けてほしい」という連絡がきた。そうなのかと思って、やはりそのつもりでいたが、そのまま国体は終わってしまった。
あとで聞かされた話では、千葉県ティーボール連盟はもはや組織の態をなしていないが、一応は社会人野球の日本野球連盟の傘下なので、日本野球連盟に所属する千葉県野球連盟や印西市体育協会が運営に当たったそうだ。我がYBCフェニーズも千葉県野球連盟に加盟しているが、そのあたりの事情は何が何なのか、その時も今もよくわからない。
ティーボールは1988年に国際野球連盟と国際ソフトボール連盟によって考案された。その5年後の1993年に日本ティーボール協会が発足したとき、関係者に乞われて私は深くも考えずに役員の一人になった。野球型競技の底辺拡大という大義にひかれたからである。会長は海部俊樹元首相だった(現在もそうである)。名称からして当然、日本のティーボールを総括する組織だと思っていたが、あとで聞いた話では、日本野球連盟に関わる人たちの別組織もあるという。つまり、ティーボール界は二派に分裂していたのである。
こういうことは、ティーボールに限らず、アマチュアスポーツ界ではそう珍しいことではないらしい。プロ野球も、1950年のセパ分裂や、近年では例の近鉄球団の消滅と楽天球団の誕生を巡る大騒動があったのだから、大きな口は叩けないが、それでもセパ両リーグの上部組織(日本野球機構)ができていて、最低限の機能は発揮されている。
別に統一組織がなくても、野球型競技の底辺が拡大することはいいことだから、千葉県ティーボール連盟が(それなりの予算がおりる国体のような大会だけでなく)常時、活動してくれることを切望している。大人たちの思わくや面子などはどうでもいい。子どもたちが野球型競技に興味を抱き、さらにすすんでゲームを楽しんでくれれば、それで十分である。
3月22日、読売巨人軍と東京大学硬式野球部の交流戦が行われる予定だった。プロ野球そのものの地盤沈下がゆっくり始まっている中で、球界のリーダーであると自他ともに認めるジャイアンツと清武英利GMが、アマチュア野球にこれまで以上に目を注いでくれるようになったお陰である。
しかし、周知のように3.11の震災で、交流戦は中止になった。当然のこととはいえ、やはり残念至極でもあった。プロアマの断絶がどんどん解消されている昨今の風潮とはいえ、金銭に関わるプロを教育に関わる大学野球が(建前だけかも知れないが)忌避する土壌は十分に開拓されているとはいえない。その中での巨人ー東大戦だから、ひじょうに有意義だと喜んでいた私はがっかりした。
ところが、その企画が復活し、8月23日、交流戦が実現した。直前の数日は降雨だったので、当日の天候が心配されたが、首都圏だけが夏日に恵まれた。内心では、この異変は(このブログを長く読んでくださっている方にはおわかりのように)まさに「谷沢晴れ」だと思ったが、それを口に出しても失笑を買うだけだろうから、黙って我が天気運にほくそ笑むだけにした。
試合開始は16時30分。前夜、コトケンこと琴賀岡主務(彼は高校まで剣道一筋だったのに、なぜか大学で野球部に来た。東大野球部は門戸が広い!)から連絡があったので、一誠寮発のバスに便乗して、部員諸君と同行することにした。
12時過ぎに寮に着くと、山形合宿で真っ黒に日焼けした麒麟こと高山久成・ウックンこと内海翔太の両君と久しぶりに対面。私がわざと直立不動で「お帰りなさい。今日からまた宜しく」と挨拶すると、笑ってくれた。これは先日来、私がプロ野球ニュースのスタッフたちに受けた戯れだったので、ついやってしまった。
御手洗監督から合宿の話をいろいろとお聞きしながら、Tシャツと白のユニフォームに着替えた。このTシャツは、嬉しいことにこの6月に4年生から贈られたもので、「TOKYO・41」と刺繍の入っている。その装いでバスに乗り込んだ。東大野球部のバス移動は、たとえ何時間であっても、私語禁止が不文律である。全員、黙然(もくねん)としているが、特に今日は車内に緊張感が張りつめている。
ジャイアンツ球場は、イースタンリーグの対東北楽天戦の最中で、観客も大勢だった。つまり、ジャイアンツは変則ダブルヘッダーとなる。緊迫した試合が終わるまで、我々は2年前に新装なった室内練習場で打撃練習を開始。久しぶりだったせいか、部員たちからティー打撃指導の要請が相次いだ。
試合中はベンチの隅でスコアを付けながら静観した。途中から東大には慣れないナイトゲームとなって守備ミスなども出たが、プロと直に交流するのはさすがに様々な点で感じるところがあっただろう。帰り際にお会いした橋本OB会長も同様の言葉を発しておられた。

結果は0対11の完敗。しかし、5回までは先発・鈴木翔太君が隠善選手の2ランだけに抑えた。制球・テンポがともに良く、ディフェンスにもリズムが生まれて、内海君の2度の好プレー、高山君のスライディングキャッチ、タッチーこと舘洋平君は横っ飛びでライナーを好捕し、鈴木投手を助けた。しかし、惜しいかな、6回から登板したゴルフィンこと平泉豪祐君が乱調で、試合はワンサイドになった。打撃も低調(これは私にも責任がある)で、育成選手の左腕・岸敬介投手に7イニング1安打と完璧に抑え込まれた。

巨人のスタメンは、一番松本、二番隠善、三番大田、四番中井、五番田中、六番山本、七番鬼屋敷、八番福元、九番土井。育成選手も2名いたが、1軍レベルの選手も複数加わっていた。けっして「たかが東大ごとき」とはなめてかかることなく、真剣勝負に徹してくれたことは、実にありがたかった。

ジャイアンツの方々は、いつも(何しろYBCの創設時のトライアウト以来、何度もお世話になっているのだ)事細かく気を配ってくださる。営業企画部・青木丈典氏が終始いろいろと案内・誘導してくれた。川相二軍監督、吉原孝介育成チーフコーチ、上田育成コーチに感謝の御礼に伺うと「恐縮です」とおっしゃるが、恐縮はこちらの方である。スポーツ紙にも掲載されている両チーム揃っての記念写真を撮影したが、この時には、史上初といっていいこの交流戦の実現に尽力できたことにいささかの感慨を味わった。
8月19日、「気仙沼少年野球チーム」が柏市にやって来た。引率の菅原監督以下保護者の方々を含めると総勢50名を超える数である。バスに7時間も揺られての来柏である。到着してすぐに宿泊先を提供してくれた麗澤大学の研修寮に入ったが、そこで休む間もなく、「東日本大震災を支援する市民の会」の懇親会の席に臨んでくれた。
私も6月に気仙沼へ行ったYBCのメンバーとともに出席した。二ヶ月ぶりの再会という感じもなく、つい昨日いっしょに野球をやったような気がするほど、記憶は鮮明だった。
すぐに目に入ったのは、真っ黒に日焼けした気仙沼小・南気仙沼小の小学生たちで、トリプル君(三つ子君)たちも元気そのものだった。
柏市側は、秋山浩保市長をはじめ、寺嶋哲生商工会議所会頭ら、市民の会の方々約90名が顔を揃えて、子どもたちを歓待した。
私も心から再会を楽しみだったことを少しでも形で示すべく、ささやかながらプレゼントを用意した。先日、電話で監督から「中古品のグラブなどの義援品は全国からたくさん戴いたが、やはり新品の(使い手の癖のついていない)のを子どもたちに与えたい」という話を聞いていたので、用具を全て失った気仙沼南小の子どもたちには新品のミットとグラブを2チーム分贈った。
気仙沼小の子どもたちには、実用品以上に心にかかわるものをと考えて、彼らの憧れの対象であるプロ野球選手の「言葉」をプレゼントすることに決めた。その言葉で子どもたちの夢と希望がいっそう増幅することになれば、私も大いに嬉しいからである。
それで、17日のナゴヤドームでの中日ー巨人戦の試合前に、攻守走とも子どもたちの手本になるストイックな名選手・荒木雅博内野手からバットを1本、頂戴した。中日側はそれだけにして、さらに、巨人側にも協力してもらおうと勝手に決めて、トップの原監督に依頼した。好漢・原辰徳氏は満面に笑みをたたえて、「いいことをおやりですね,谷沢さん!」と快く引き受けてくれ、荒木君の新品のバットに一筆、筆ならぬマジックペンをふるってくれた。曰く「がんばろう!結束」。

できることなら、子どもたちが滞在する三日間ずっと接していたかったのだが、翌日は北海道へ飛ばなければならない。(もちろん、ビールを楽しむ避暑のためではない。自治総合センター/北海道/旭川市の3者主催「宝くじスポーツフェア ドリームベースボール」に参加するためである。)

それで償いとして、たけなわの宴を抜け出し、子どもたちの部屋に行って、いろいろ質問を受けて、臨時の野球教室を行った。こどもたちの口からははほんとうに素直に様々な質問が飛び出す。それがまた楽しくもあり、時には大いにこちらの参考にもなる。
このあと、子どもたちには千葉マリン球場でのプロ野球観戦や柏市の小学生チームとの親善試合などが用意されている。多くの大人たちがいつも見守っていることを、心のどこかに留めてくれればと思う。
なお、「東日本大震災復興を支援する柏市民の会」では、8月27日〜10月8日まで8日間単位で、気仙沼市での活動する市民ボランティアを募っていることを付け加えておく。
プロフィール

名前 谷沢健一 KenichiYazawa
生年月日 1947.9.22
出身地 千葉県
出身校 習志野高〜早稲田大学
在籍球団 中日 背番号 41
投打 左投左打
通算成績
安2062/本273/点969/率.302
1987年引退
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